嘉数中日記 第200回(平成28年10月6日)

   「愛する」ということ(200回記念「特別編」)


  嘉数中日記も200回になりました。今日は皆さんに「愛する」ということについての話を書きます。


  Aさんの父が、病気で離島の病院から本島の病院に搬送されました。
  付き添いはAさんの母です。

  医師から「余命あと3ヶ月です」と言われました。
  Aさんと母は、このことを父には話しませんでした。
  医師は、腰の痛みを和らげるために、腰の手術をしました。

  搬送された日から母は、病院で簡易ベッドで毎日寝泊まりしました。
  Aさんも仕事を終えた後の夜、毎日病院に行きました。土曜日・日曜日は朝から夜まで病院にい
  ました。

  2ヶ月後、車椅子の父は、他のリハビリの病院に移りました。
  母はその病院でも、簡易ベッドで毎日寝泊まりしました。
  
  Aさんは、毎日父と一緒にいる母に、「疲れているから、自分のアパートで休んだら」と
  言いました。
  母は「父の死に目に会えなかったら後悔するから」と言って断りました。

  父は、リハビリの病院で、母と一緒に「歩けるようになりたい」と必死にリハビリをしました。
  リハビリの病院を2ヶ月で退院しました。
  退院する時も「余命3ヶ月です。歩けるようになることもありません」と医師に言われました。

  Aさんは父のために、車椅子で出入り出来るようなアパートに移りました。
  母は父が退院するまで、一度もAさんのアパートに来ることはありませんでした。

  離島に戻った父は、人や車が通らない毎朝5時に、母と一緒に歩く練習をしました。

  退院して4ヶ月後、奇跡が起きました。
  医師から「余命3ヶ月で、歩くことはできない」と言われた父が歩けるようになりました。

  しかし、父の病気が治ったのではありませんでした。
  退院してから1年半がたち、苦しそうな父に母は、本当のことを告げました。

  Aさんは父に電話で実家に呼ばれました。
  父は家族全員を前に「兄弟仲良く、母を大切にしてほしい」と言いました。

  その半年後、離島の県立病院に入院しました。
  Aさんのおじさんから「至急帰るように」との電話がありました。
  Aさんが病院へ着いた時、父は「疲れただろう」と言いました。

  翌日、Aさんは「明日帰る。仕事があるから来週又来る」と母に言いました。
  その日の午後、父の様態は急変しました。
  医師からも「危篤状態です」と言われ、父を家に連れて帰りました。
  その日の夕方父は亡くなりました。

  まるで、Aさんが帰るのを待っていたかのように亡くなりました。
  
  父が亡くなって数時間後、県立病院の看護部長が家に来て、父の鼻に綿を入れました。
  父は20年前県立病院で働いていて、看護部長は父の部下でした。
  20年前の部下にも慕われていたことがわかりました。

  母が「今日は私たちの結婚記念日だった」と言いました。
  Aさんは、父が結婚記念日に亡くなったのは、常に父を支え続けた母への父の最後の感謝の
  気持ちだと思いました。

  Aさんは、父が病気になってから亡くなるまで、ずっと父と一緒だった母の行動、亡くなってからも
  毎日仏壇にお祈りする母を思うと、これが「愛する」ことだと思いました。
  

  家が貧しくて小学校しか行けなかった父の告別式。最後の代表焼香は市長でした。
  

  
  

  
  

  
  
  

  
  

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