嘉数中日記第287回   平成30年6月22日

平和講演 慰霊の日に寄せて


6月21日安里嗣則氏をお迎えして平和講演会が開催されました。


特別な思いの特別の日。聞く側にそれなりの緊張がないと形だけで終わってしまう。

安里氏今年77歳。この日の体育館は30℃を超す。立ったまま一時間の講演が続く。

旧石川市のご出身で家族で移民したサイパンで太平洋戦争が始まり家族全員捕虜収容所で生活した。


大切なものは見ようとしないと見えない、聞こうとしないと聞こえない。

70年前と同じ暑いこの日、一時間立ったままお話された安里嗣則氏。汗びっしょりになりながら伝えたかったことは何か


生徒会からのメッセージ。みなそれぞれ自分なりの思いを大切にしてほしい。




講演会終了後、片付け、解散して各学級へ。日常にもどっても大切なものは心にとどめておきたい。

 講演終了後、校長室で懇談しました。その中で安里氏が特に熱く語っていたのは沖縄最後の官撰知事島田叡氏のことです。校長室にも一冊島田氏について書かれた本があります。その後書きを紹介します。

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あとがき
 意見広告というものがある。この本の出版は平和運動を何一つやってこなかった私にとって、まさにそのものであり、懺悔なのである。
 憲法改正が叫ばれて久しく、戦後が遠くなるにしたがって、その動きがますます活発になっていく。しかし、私にとって日本国憲法は宗教と同じで、その是非を問う対象の外にある。つまり、私にとって日本国憲法は不変のものなのである。
 戦争未経験者の平和への叫びは、その体験者の足元にも及ばない。しかし、いつもそのふたつの叫びがある中で、戦争はいつの時代にもどこかで繰り返されてきた。特に中東でも、アフリカでも戦争は現在進行中である。否、そんな遠くに目をやらなくても、身近な沖縄周辺にも、その様相が見られる。
 たった、70年前、わずか70年前である。日本で唯一の地上戦が沖縄で起こった。しかも、それは一般市民である多くの沖縄県民を巻き込んでの悲惨な戦いだった。そのような中で、官撰の沖縄県知事であった島田叡氏が亡くなられた。
 70年経った今なお、氏は沖縄の人々から手を合わされているという。これは生半可なことではない。官撰知事で、否、戦後の選挙で選ばれた知事で、ここまで慕われる方が今までこの国に存在したであろうか。その一端が、島田知事が愛した野球のフェアプレー精神や、チームメートを思いやる心情を称え、沖縄県の高校球児たちに「島田杯」となって今なお受け継がれているという。
 一方島田知事の出身地である兵庫県より、わずか5ヶ月足らずの在任期間であった沖縄県での評価が高いのは、同じ兵庫県民として氏に何とも申し訳ない次第である。私が、島田知事に興味を持ったのは30年以上も前であるが、当時は今ほどの資料はなかった。否、私の怠慢で見つけられなかっただけかもしれない。この作品では、島田知事は誰にも至誠と公正に接せられる、多いやりのある人物として描いた。それは私の創作ではなく、氏を書かれたどの本にも資料にもそのように表現されており、その否定するものが見つからなかっただけのことだ。
 母の口癖だった「実るほど、首を垂れる稲穂かな」という人物像に見えた。誰もがそうありたいと願いつつ、欲望と怠惰が邪魔をして、島田知事のように初心一環することは私には難しい。
 でも、私は見た。阪神淡路大震災と東北の未曾有の大災害の折、島田知事と同じように、我が身の危険を顧みずに被災された人々の救助に当たった多くの人々がいたことを、日本人もまだまだ捨てたものではないと思う。
 出版にあたり、兵庫県佐用町の元海軍二等整備兵曹として沖縄戦を戦ってこられた三枝利夫氏と、少年期に沖縄戦で惨舌な体験をされた那覇市繁多川の知念堅亀氏には、当時の貴重な体験を伺い、口では言い表せない辛酸の日々を思い出されたことに対して申し訳なさと感謝が交錯しております。両氏が、ますますご健康で今後をお過ごしになられることをお祈り申し上げます。
 最後に、文芸社の飯塚孝子氏と、編集にご尽力くださった吉澤茂氏に深謝します。

    横家伸一 「群青の墓標」〜最後の沖縄官選知事・島田叡〜   文芸社

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 以前読んだとき「〜たった70年前、わずか70年前である〜」この一文が強烈に残った本です。最近島田叡氏を知らないという人が増えてきた。これを機会に是非読んでほしい。